渋柿まみれの日々

渋柿博士(学生)の日常を綴っていきます。10%は嘘です。30%は嘘です。50%は嘘です。90%は嘘です。

【雑記】とりあえず何か書いとけ

こんにちは。渋柿博士です。

 

書きたいことがあるわけではないのですが、何か書きたい。何か遺したい。ということで雑に頭に浮かんだことを書いていきます。

 

先日僕ヤバの第48話が更新されましたが、その主人公市川の自己肯定感は非常に低いものと推察できます。デートまでしてるくせに かく言う私も、自己肯定感があまりにも低すぎて困っています。今日はそんなお話。

 

自己肯定感

自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり[1]自尊心英語self-esteem)、自己存在感、自己効力感英語self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である[2][3][4][5]。現在、これらの言葉は多義的に用いられることが少なくなく、結果としてあらゆる肯定的な心理的要素を表現する包括的名称(umbrella term)となっているという指摘がある

wikiより引用

 

ざっくばらんに申し上げますと自分のことが好きではない、ということです。これによる弊害は非常に多く、人間的社会生活を送る上で一番大事なものと言っても過言ではありません。まず恋愛をすることが不可能です。関係ないだろとお思いになるかもしれませんが、恋愛というのは自分をプレゼンテーションすることです。自分の魅力を相手に伝え、それを相手が理解し了承することで初めてお付き合いとなるわけです。では自己肯定感の低い私の場合、そもそも自分という人間が賞賛に値しないので、人に勧めたくないのです。つまらない映画を人に勧めたくないのと同義ですね、たぶん。それ以前に自分が酷く気持ちが悪い者だと思いながら、街を歩いているので、仮に好きな人が出来たとしても、自分が好きになってはいけないと恋愛感情を5秒で切り捨てる、そんな訓練を毎日のように行っているのです。決して毎日人を好きになっているという意味ではありません。では、このように自分から女性を避け続ける人間が果たして恋愛をすることが出来るでしょうか。答えは当然のように否。不可能に決まっているのです。巷には多くの自己啓発本が乱見されており、そのうち何冊かは私も読みました。しかし読んだところで根本的解決には至らず、常に人が自分のことをどう思っているかに戦々恐々しながら生きているのです。これだけで苦痛ですね。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 こんなのですね。

 

自分でも何故このような状態になってしまったのか分かりません。私の親は些細なことでも褒めてくれ、自分という存在自体を認めてくれていました。一つ可能性があるとすれば、やはり中高時代かなと思います。今となっては冗談か定かではないですが、「不細工」、「キモイ」と若干否定しずらい言葉をかけられていました。陰でこっそり言われることもあったので、人の言葉に敏感になったのではないかと考えています。かくして高校卒業時には見事自己肯定感の低い能無しが誕生したのです。

 

高かった自己肯定感が低くなるのに時間はかからず、それはまるでボールが坂道を転がるように。きっと結婚することもなく、趣味にお金を使い、幸せな人生を歩んでいくことでしょう。そんな選択肢もありかなとは思います。ただ周りの友人が当然のように彼氏/彼女を作り「普通」の生活を送っているのを見ると、どうして自分は当たり前のことが出来ていないのかと不安にさいなまれてしまうのです。

 

Dr.渋柿